Automatic Words

興味のあることは、服・映画・社会学、その他もろもろ。普段感じたことを自由気ままに書くだけのブログです。よろしくお願いします。ちなみにアイコンはYouTuberであるシラクサさんのフリーイラストです。ぜひofficialサイトを覗いて見てください。

残余と連帯

最近、アイデンティティ・ポリティクスに言及する書籍がよく目に入る。

コロナ禍で脚光を浴びたBlack Lives Matterや、LGBTQに関する法案など、日々のニュースでよく目にするあれらがアイデンティティ・ポリティクスと呼ばれるものだ。

一般的に、アイデンティティ・ポリティクスは「正しい」政治運動だとされる。しかし、「一般的に」がミソである。

例えば日本では大学の進学率は50%程度である。今の大学生はZ世代と呼ばれる世代であり、何かとマスメディアで特集される存在である。

そのZ世代の彼らにとって「差別」は糾弾すべき対象である。生まれた時からそれが常識となっている彼らは、その正当性を疑わない。

しかしZ世代とされる彼らは、果たして低学歴の人々を含んでいるのだろうか。世代の半数を占める低学歴の人々はZ世代に反映されているのだろうか。

先に挙げた、「一般的に」はZ世代にとってであり、Z世代の残余、つまり「Z世代になれなかったものたち」が存在する限り、「一般的に」は限定されたものとなる。

もちろん、全ての大学生がアイデンティティ・ポリティクスを支持する訳では無い。いわゆる右翼もいる。しかしそれ以上に無関心の人の方が多いかもしれない。

すると、「差別」に敏感なZ世代は、世代の半分のそのまた半分の半分の…というようにかなり限られそうだ。

このように書くと、「数が少ないから正しくないとでも言うのか」という反論もあるだろう。しかし、民主主義という制度を取っている以上、数が少なければどんなに正しくても勝ち目はない。

また、「差別」の認定というものが難しいことを考慮する必要もある。朝井リョウの『正欲』は、その最たる例であろう。その小説では、マジョリティの掲げる「多様性」に含まれない残余のマイノリティの苦悩が描かれていた。この世は誰もが何かの当事者たりうるのである。その中で特定のアイデンティティの保護を求めるのならば、誰もがそうする権利はある。このことはリベラルな方々なら「そりゃそうだ」であろう。

しかし、誰もがアイデンティティの保護を求めるのならば、一体誰がそれを承認するのだろうか。それは社会であり、国家であるかもしれない。これは自明だが、承認する時、残余は必ず生まれる。その度にアイデンティティ・ポリティクスをしていて、社会は前に進むのだろうか。

誰もが普遍的に納得できるルールはないだろう。だからといって「差別」を温存するのが良い訳では無い。しかし現状、誰もが差別されうることを認識し、それに構えていなければ、自己尊厳が破壊される可能性もある。

そこで、大きなものが必要になってくる。哲学者フランソワ・リオタールの言う「大きな物語」よろしく、文化、宗教、イデオロギーなど何か頼るものがあれば差別されても心の拠り所になるだろう。

しかしそれもまた問題となっているのが、皆さんご存知のイスラム過激派である。ハーバーマスはこの状況をポスト世俗化と評した。

結局のところ、このクソみたいな社会を耐えるには、同士がいないとやっていけないのである。それはBlack Lives Matterのように大きな連帯となるだろう。しかし、それは上から認められるものではなく、「自分たち」の連帯でなければならない。そうでなければ、残余が生まれるのみである。

 

『終わりなき日常を生きろ』宮台真司

書籍紹介

 

今回は、宮台真司先生の著書である『終わりなき日常を生きろ』をご紹介します!

 

 

 

著者紹介 

宮台真司:1959年、宮城県仙台市生まれ。戦後の東大社会学博士号取得5人目であり、日本を代表する社会学者。戦後サブカルチャー研究の第一人者でもあり、音楽・映画・漫画を分析・批評し、それらの題材をもとに日本社会の分析を行う。

 

 

『終わりなき日常を生きろ』紹介

2018年,  著者: 宮台真司 ,筑摩書房

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この本の副題は、「オウム完全克服マニュアル」であり、当時日本中を震撼させた「地下鉄サリン事件」の実行組織、オウム真理教の教祖麻原彰晃等の逮捕を受けて急遽書籍として発刊されました。宮台真司はこの本の軸を "終わりなき日常" として置き、その凄惨な事件の背景を探ります。

 

キーワード① "終わりなき日常"

この本のキーワードである "終わりなき日常" とは一体何なのだろうか。そのまま捉えると「日常が終わらない?どういうこと?」となってしまうので、ここでもう1つ "終末感" という概念を補足しておきます。

"終末感" とは、「世界が終わってしまう」という感じ方のことです。こう聞くと「世界が終わる?ネガティブだなあ」と思う方もいるでしょう。

しかし宮台は(世界の終末後に共同体が復権する)男の子的終末感と、(世界は何も変わらない、今後が終わりだとする)女の子的終末感を区別します。つまり、世界が終わることを変革として捉える前者と、世界が終わることを停滞として捉える後者がいるということです。ここまでを "終わりなき日常" のヒントとします。

 

 

キーワード② "さまよえる良心"

この本のもう1つのキーワードである " さまよえる良心" について。最近のSNS上では「"良心"あふれる心優しい方々」が熱心に活動しています。自らの正義を全うするべく、共感を求め、不買運動をしたり、署名運動をしたり、社会をより良くするために働いています。"良心" は特別なエリートのみが持つものではなく、誰でも持つことができます。

しかし、一体この "良心" はどう定義付けられるのでしょうか。「良きこと」を決めるのは困難なことです。なぜなら文化・社会によって「良きこと」は異なるからです。例を挙げると、日本では「退職する年齢」を一律に定めることは「悪しきこと」ではありません。しかしアメリカでは「退職する年齢」を一律に定めることは「年齢による差別」として捉えられてしまいます。このように「良きこと・悪しきこと」は文化・社会によって異なるのです。

「良きこと」を1つに定める方法としては、宗教があります。神様が定めた「良きこと」はその宗教を信仰する人々にとって絶対的なことです。これを国家形態とする時、「神政国家」となります。「良きこと」を国家が定め、それに国民が従います。宮台はオウム真理教が一種の「神政国家」であることを指摘し、「さまよえる良心」に言及します。

 

 

 

2つのキーワード "終わりなき日常" "さまよえる良心" を軸に、サブカルチャーや性愛を題材として「地下鉄サリン事件」を分析する本ですが、この先も読み継がれるべき本だと思います。二度とあのような事件を起こさないために、あの事件を振り返るべきだと思います。

 

 

ここまでご閲覧ありがとうございます。『終わりなき日常』が気になった方はぜひ読んでみてください。

 

 

LUGGAGE LABEL / LINER WALLET (吉田カバン)

購入品紹介

吉田カバン/LUGGAGE LABEL

 

今回私が購入したのは、こちら!

LUGGAGE LABEL / LINER WALLET 

f:id:nr2328:20200915201417j:image¥6,000 +tax

吉田カバンのECにて購入させていただきました!

赤バッテンがトレードマークのこちらのお財布について説明します。

 

 

LUGGAGE LABELとは

 

LUGGAGE LABELは1984年、老舗カバンメーカーの吉田カバンから誕生したブランドです。吉田カバンはPORTER(ポーター)が有名ですが、こちらのLUGGAGE LABELも人気なラインとなっています。

カバンやポーチ、財布など小物類が充実しており、耐久性に優れた素材を使用しているのが特徴のブランドとなります。赤バッテン(ライナー)青バッテン(ニューライナー)があり、後者はより耐久性に優れたアイテムとなっています。

f:id:nr2328:20200915202212j:imageNEW LINER

 

気になる中はどんな感じかと言うと、、

f:id:nr2328:20200915202439j:imageこんな感じです!!

カードホルダーが6個付いています。小銭は右側のマジックテープで囲われた所にしまうことができます。お札をしまう所ももちろんあります(笑)

 

実物はどんな感じかと言うと、、

f:id:nr2328:20200915202815j:imagef:id:nr2328:20200915203035j:image

こんな感じです!!

色味が良く、丈夫な作りなので大満足です(笑)

カードは6枚しか入らないので他にカードケースを持つ必要がありそうですが、取り出しやすいのはありがたいです。

 

今回の購入品紹介は以上となります。

ここまで見てくださりありがとうございます!!

『ジキルとハイド』

今週のお題「読書感想文」ということで『ジキルとハイド』について感想を述べたいと思います。

 

~あらすじ~

 ジキル博士は品行方正で、博識で、街で1番と言っても過言ではないくらいの良識ある人物。そのジキル博士が住む街で、不穏な事件が起こる。深夜にある男が幼い少女を踏み潰してしまうという極悪非道な事件である。しかしこの極悪非道な男はなんとあのジキル博士の友人であった。弁護士アタスンはジキル博士が悪い男に脅されていると推測し、ジキル博士を悪の手から救おうとする。ジキル博士は一体何に巻き込まれているのだろうか。

 

 

コメント

 この話はジキル博士という善人とハイド氏という悪人から成り立っています。しかし本当にジキル博士は善人と言えるのでしょうか。ジキル博士の告白の中で明かされたのは、自分の中で積もり積もった悪への衝動があの薬の製作に繋がったことです。あの薬を作るまでは、ジキル博士の中には善の部分と悪の部分があり、善がかろうじて悪に勝っていただけなのです。悪である自分に快感を覚え、しかもハイド氏からジキル博士に変わることで自分の悪行は罰せられない。悪への依存が高まります。最終的には通常状態が悪になってしまい、その恐怖から自ら死を選んでしまいます。

 このお話が示すのは、善と悪はキレイに2つに別れていないということです。根っからの善人もいなければ、根っからの悪人もいません。人の中には善と悪が混ざり合っており、絶えずその2つは争っているのです。しかしこの争いは善にとって有利なものです。なぜなら悪は悪行という行為でしか表出されないからです。罰則がある限り、悪は心の中に居場所を求めます。一方で善は善行といった形で世間に奨励されるものであるため、積極的に表出されます。悪は心という狭い場所に追いやられ、善は世界という広大な場所にいることができます。そのため世界では悪より善の方が優位な立場にいます。逆に言うと、心の中では悪の方が優位な立場にいます。つまり、心の中では誰もが悪人でありうるということです。それは罰を受けるものではないため、心の中に積み重なっていきます。その積み重なった悪を全て外に出した者がジキル博士であるのだと私は思います。

 ジキル博士は善人かと言うと、善人ではありません。そして悪人でもありません。人より心の中に悪を積み重ねてしまった男なのです。誰もがジキル博士になりうることを努努忘れてはなりません。

 

『ジキルとハイド』

著者:ロバート・L・スティーヴンソン

訳者:田口俊

新潮文庫、2015年

 

 

映画『 HOUSE』1977年,大林宣彦

 第1回映画紹介

 

みなさんは『HOUSE』という映画をご存知でしょうか?この映画は1977年に公開された映画で、大林宣彦監督によって制作されました。この映画をもっと多くの人に観てもらいたいので、ご紹介致します。

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~あらすじ~

 高校生、演劇部の少女7人は夏休みに"オシャレ"というニックネームの女の子のおばあさんのお家に合宿に行くことになった。そして"おばちゃま"は温かく少女7人を出迎えてくれた。

 しかし何だかお家の様子がおかしい。そして"おばちゃま"の様子もどこかおかしい。7人が違和感を抱かない間に、徐々におかしなことに巻き込まれていくことになる。7人は無事生還できるのか、"おばちゃま"は一体何者なのだろうか。

 

 

 

 

コメント

 最初は、どこかわざとらしい演技や古めかしい特撮が現代の映画と比べると目立つが、この映画を見終わったあとにはそのような感想を持ちえません。わざとらしい演技は映画の味となり、古めかしい特撮はサイケデリックを際立たせています。映像技術によってサイケな空間を生み出す手法は見事だと思います。場面で言えば、メロディがピアノに喰われるシーン、クンフーが電灯に喰われるシーンが特に見応えのある場面です。

 人の思いは死んでも残る。おばちゃま→家→オシャレと人の思いは媒体を見つけ出し、後世に残っていきます。心と体はひとまとめにされるものではないということが思い知らされます。逆に言うと媒体が無ければ人の心は後世に残らないということなのでしょうか。最近はお墓離れが進み、お墓参りの代行サービスなんてものもあります。残された心はどこに行くのでしょうか。無事に成仏できるとよいのですが。

 

 

 

初投稿

みなさま初めまして

本日ブログを始めた、Automatic Wordsと申します。

当ブログでは

・映画

社会学に関する書籍紹介

・その他時事問題等

などを書いていこうと思います。この先他の分野についても述べていくことがあると思いますが、暖かく見守ってもらえるとありがたいです。よろしくお願いいたします。