Automatic Words

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残余と連帯

最近、アイデンティティ・ポリティクスに言及する書籍がよく目に入る。

コロナ禍で脚光を浴びたBlack Lives Matterや、LGBTQに関する法案など、日々のニュースでよく目にするあれらがアイデンティティ・ポリティクスと呼ばれるものだ。

一般的に、アイデンティティ・ポリティクスは「正しい」政治運動だとされる。しかし、「一般的に」がミソである。

例えば日本では大学の進学率は50%程度である。今の大学生はZ世代と呼ばれる世代であり、何かとマスメディアで特集される存在である。

そのZ世代の彼らにとって「差別」は糾弾すべき対象である。生まれた時からそれが常識となっている彼らは、その正当性を疑わない。

しかしZ世代とされる彼らは、果たして低学歴の人々を含んでいるのだろうか。世代の半数を占める低学歴の人々はZ世代に反映されているのだろうか。

先に挙げた、「一般的に」はZ世代にとってであり、Z世代の残余、つまり「Z世代になれなかったものたち」が存在する限り、「一般的に」は限定されたものとなる。

もちろん、全ての大学生がアイデンティティ・ポリティクスを支持する訳では無い。いわゆる右翼もいる。しかしそれ以上に無関心の人の方が多いかもしれない。

すると、「差別」に敏感なZ世代は、世代の半分のそのまた半分の半分の…というようにかなり限られそうだ。

このように書くと、「数が少ないから正しくないとでも言うのか」という反論もあるだろう。しかし、民主主義という制度を取っている以上、数が少なければどんなに正しくても勝ち目はない。

また、「差別」の認定というものが難しいことを考慮する必要もある。朝井リョウの『正欲』は、その最たる例であろう。その小説では、マジョリティの掲げる「多様性」に含まれない残余のマイノリティの苦悩が描かれていた。この世は誰もが何かの当事者たりうるのである。その中で特定のアイデンティティの保護を求めるのならば、誰もがそうする権利はある。このことはリベラルな方々なら「そりゃそうだ」であろう。

しかし、誰もがアイデンティティの保護を求めるのならば、一体誰がそれを承認するのだろうか。それは社会であり、国家であるかもしれない。これは自明だが、承認する時、残余は必ず生まれる。その度にアイデンティティ・ポリティクスをしていて、社会は前に進むのだろうか。

誰もが普遍的に納得できるルールはないだろう。だからといって「差別」を温存するのが良い訳では無い。しかし現状、誰もが差別されうることを認識し、それに構えていなければ、自己尊厳が破壊される可能性もある。

そこで、大きなものが必要になってくる。哲学者フランソワ・リオタールの言う「大きな物語」よろしく、文化、宗教、イデオロギーなど何か頼るものがあれば差別されても心の拠り所になるだろう。

しかしそれもまた問題となっているのが、皆さんご存知のイスラム過激派である。ハーバーマスはこの状況をポスト世俗化と評した。

結局のところ、このクソみたいな社会を耐えるには、同士がいないとやっていけないのである。それはBlack Lives Matterのように大きな連帯となるだろう。しかし、それは上から認められるものではなく、「自分たち」の連帯でなければならない。そうでなければ、残余が生まれるのみである。